こんにちは、博士くんです。
突然ですが、今回は、ここ数年かけて作っていた創作を紹介させていただきます。
作品テーマは「ウツ×主夫×消しゴムハンコ」です!
「作品概要」や「表紙・タイトル」「本編」は下記に掲載していますが、本編は結構ボリュームがあります(笑)。
興味のある方はご覧いただければ嬉しい限りです。
なお、作者はもちろん博士くんですが、ペンネームを「くもやま博士」としています。
1.作品概要
ウツで働けなくなり、主夫生活を送る40代の男が、毎日一人で過ごす中で、自然と頭に浮かんだ苦悩の数々を言葉にしていく。
絶望感、自責の念、苛立ちなど…、辛いことばかりで埋め尽くされる頭の中。
しかし、人とのちょっとしたふれあいや、日々の何気ない出来事を記すという行為を通して、次第に心は前を向いていく。
「自分らしく生きていこう!」と思えるようになっていく。
その様子を、自らが作成した消しゴムハンコの画でも表現している。
2.表紙・タイトル
このままではどうなってしまうのか?
~ウツ主夫の小さな世界~
作・消しゴム版画 くもやま博士
3.本編
「このままではどうなってしまうのか? 」
私の名前は、くもやま博士。
40代無職で、妻と2人暮らし。
仕事はしていないが、一応家事はこなしている。
簡単に言えば、「3食昼寝付きの専業主夫」である。
妻の稼ぎで、本やCDを買ったり、映画を観るたびに、自分の不甲斐なさに直面する。
今の私にとって、100円は、仕事をしていた頃の1万円と、ほぼ同等の価値があるように思う。
ウツを患って10年余り。
何度も再就職やアルバイトにチャレンジしてきたが、「仕事をしては辞める」の繰り返し…。
それでもなんとか生きている。
これは、一人のウツ主夫が、日々孤独な生活を送りながら、心の中で叫び続けた言葉の記録である。
オレはきっともうダメだ…。
何の役にも立たない人間になってしまったんだ…。
僕は自分自身に失望している。
ここは、失望という名の暗闇なのだ。
しばらくこの大きな闇の中から抜け出せそうにない。
失望…。
望みを失った僕は、自分で自分のことを「失望認定」してしまったのだ。
一度自分で押してしまった烙印は、そう簡単に取り除くことはできない。
すっかり自信が持てなくなってしまった。
もう以前のような自分には戻れないだろう。
それはそれは辛い毎日だ。
誰かが前に、「希望を持って!」と僕を励ましたが、希望なんてどこにもありゃしないよ!!
卑屈なことばかり言います。
・すぐにイライラしてしまう自分は、最低最悪のダメ人間です。
・仕事も長く続きません。
・仕事を休む時や辞める時に、自分で職場に連絡することすらできませんでした。
・子供もできません。
・社会に対して申し訳ない気持ちです。
・それに、相当な親不孝者です。
・病気だって一向に良くなりません。
・生きていて全然楽しくありません。
僕は、このままではどうなってしまうのでしょうか?
誰か教えてください。
僕はもっと穏やかな人間でありたいのに、そういう人間にはなれそうもありません。
人のせいにしたくはないけれど、うちの家族には、すぐにカッカする人が多いです。
とにかくケンカの絶えない家庭でした。
だから僕は、穏やかな人間になりたいんだと思います。
でも実際には、穏やかでいられない時の方が多い気がします。
だから余計に自分が許せないのです。
僕は、自分が理想としている人物像になれていないから、自分のことが好きになれないのだと思うのです。
僕は、本当に本当に自分のことが嫌いです。
もう一度言います。
僕は自分のことが大嫌いです。
好きになりたいとは思うのだけれど、それはちょっと難しそうです。
もしかしたら、この世で僕のことを一番嫌っているのは、僕自身なのかもしれません。
イライラして妻に八つ当たりしてしまうところとか、完璧主義なところとか、落ち込みやすい性格とか…。
とにかく、もう大っ嫌い!
イライラした後は、必ずと言っていいほど自己嫌悪に陥ります。
時々死にたくなることもあります。
自分のことがたまらなく嫌です。
嫌いなところなら、いくらでも思いつきます。
でも妻は、こんな僕のことが好きだと言ってくれます。
何かと問題がある僕のことを「好きだ」と言ってくれるのです。
だから、自分のことが嫌いだと思うことは、僕のことを好きでいてくれる妻に対して、少々失礼な気もしています。
どういうわけか、僕はウツになってしまった。
そして、10年以上も治療を続けている。
未だ治らず、長い長い無職生活を送っている。
一応家事はやっているけれど…。
自分がこんな風になったのは、親のせいだ!と思ったことも確かにある。
けど、今はそんな風には考えていない。
だって誰も悪くはないのだから…。
親も、そして僕自身も…。
そもそも誰が悪いとかっていう話じゃないんだ。
僕がウツになったのは、誰のせいでもありゃしないんだよ。
誰かのせいにしてしまう時は、誰かのせいにして物事を収めたいだけ。
そうやって自分を守ろうとしているんだ。
誰かのせいにしても、根っこにあるモヤモヤは、所詮自分が産み出したもの。
人を責めた分だけ、結局またそのモヤモヤは、自分に返ってきてしまう。
だからもうそろそろ、誰かのせいにするのはヤメにしようと思うんだ。
朝起きて、窓を開け、植木に水をやる。
新聞を取りに行った後は、僕と妻の2人分のコーヒーを淹れる。
妻が出勤すると、パソコンで少しだけ作業をして、時には洗濯をして、だいたいいつも9:00頃には外出する。
外出の際には、マンションの管理人にとても気を遣う。
できるだけ管理人には会いたくない。
無職という引け目があるために、周りの人が僕の行動を見てどう思うか、とても気になるのだ。
自宅に戻るのは、12:00~13:00の間と決めている。
この時間帯なら、管理人が休憩中で不在だから、わざわざこの時間を狙って帰宅しているのだ。
普通の勤め人なら、お昼に帰宅したりはしないはず。
だから、無職であることを管理人に悟られないように、ビクビクしながら、毎日この時間に帰宅しているというわけだ。
午後は再びパソコン作業をしたり、テレビを観たりして、夕方からご飯支度を開始する。
そして、仕事から帰る妻をひたすら待つのである。
今のところ、これが僕の一日の流れです。
無職生活はかなりつまらない。
暇な時間は「モヤモヤ」を生み、やがて「ウツ」を運んでくる。
だから僕は、気分を落とさないようにしなきゃと、毎朝、その日のスケジュールを立てることにしている。
退屈しないようにと、できるだけびっしり予定を組むことにしている。
「規則正しい生活は、精神を安定させる」ということを、医師から教えてもらったからだ。
ただ、僕にはもう少しのんびり要素が必要。
「減らす」という作業が必要。
びっしりと予定をリストアップすると、すべてにおいて「~しなければならない」という気持ちになるため、かえって心が苦しくなることがある。
「自分にとっての普通」よりも、「世間一般的な普通」よりも、ちょっとだけ少なめに設定して行動するくらいがちょうどよさそうだ。
一日の計画は、自分が無理なくやれるレベルにしておこう。
普段一人でいることが多い僕。
いつも、自分の頭の中だけという「小さな世界」で生きている。
日中に会話をするのは、病院の先生やコーヒーショップの店員さんくらい。
それもほんの少しのやり取りだけ。
でもその人たちから、「笑顔」という薬をたくさんもらっている。
僕がちょっぴり元気になれる瞬間だ!
相手から素敵な笑顔をもらった時、僕も笑顔でいられたらいいなって思う。
たとえ今はできなくても、いつか笑顔に笑顔で恩返し。
よく通っているコーヒーショップの店員さんがとても爽やかで、いつも元気をもらっていた。
しばらく顔を合わせていなかったから、「あれ?辞めちゃったのかな?」と思っていたら、今日、久しぶりに見かけた。
相変わらず気持ちの良い接客に、自然と僕の心は晴れやかになる。
「いつも元気をもらっています!」
いつか感謝の気持ちを伝えたい…。
そう思っていた僕は、ついに、ついに!口を開いた。
とてもちっちゃい声だったが、「めっちゃ、爽やかですね」と僕。
すると、でっかい声で、「そうですかぁ~?」とニッコリ。
ガムシロップやコーヒーミルクも、僕の希望通りに入れてくれるし、本当に素晴らしい気配り。
朝からモヤモヤしている時でも、ここに来ればちょっぴり元気になれる。
この人は、無条件で素敵な人だと思った。
いったい何人の人の心を元気にしているのだろう?
こういう人のことを、「心のオアシス」とか「太陽みたいな人」とか言うんだな。
そして、素直な気持ちをほんの少しでも相手に伝えることができた自分もまだまだ捨てたもんじゃないなと、少しだけ自分を称えたのであった。
いつの間にか僕は、コーヒーを飲みに行くというより、店員さんの笑顔に会いに行くようになっていた。
その店員さんに会えば、自分が生きているということを確認できるような気さえしたのだ。
人に焦がれて、自然と足はコーヒーショップへと向かう。
僕を動かしてくれるのは、あの店員さんのあの笑顔。
部屋に閉じこもっているのがもったいないと思うくらい、笑顔が僕を動かしていく。
だから、もし彼女が仕事を辞めてしまったら、別の笑顔を探す旅に出なくちゃならない。
「爽やかな笑顔と接客に、いつも元気をもらっています。朝のテンションが低い僕にとって、あなたの笑顔は栄養剤です!おかげで今日も一日頑張れそうです。謝々。」
伝えたいけれど、伝えられない言葉。
だけど、いつも心の中にある言葉。
なんだか心があったかいよ。
今日も、9:30頃にコーヒーショップに入る。
今や僕の日課だ。
このお店は、以前勤めていた会社の近くにある。
9:30頃にお店に行く理由は、その時間帯なら、辞めた会社の人に遭遇する確率が低いから。
「そんなこと気にしてどうする!?」と自分を慰めていたら、ガラス越しに、辞めた会社の人が出勤している姿を目撃してしまう。
ドキドキした。
僕の自意識がグツグツと煮えたぎって、人感センサーが鋭く反応する。
でも、仕事を辞めたのは、もう1年以上前の話。
果たして自分のことなど覚えているだろうか?
もし、偶然バッタリ会ってしまったらどうなる?
仮に会話をしたとしても、せいぜい「体調大丈夫ですか?」とか「お久しぶりです」くらいだろう。
「お前はダメな奴だ!」とか「無責任な奴だ!」などと言われるだろうか?
おそらく、そんな大事件にはならないだろう。
人が自分のことをどう思っているのか、気になって仕方がない。
想像することは大切なことだけど、思い込みは、自分が相手の脳ミソになりきっている状態。
直接確認でもしない限り、相手が何を考えているかなんてわからないのに、その人の考えを自分で勝手に創り出してしまっているんだな。
相手の考えは、相手にしか創り出せないっていうのに…。
空想や深読みや思い込みが悪いって言ってるんじゃない。
だけど、人間はそんなに万能じゃないよ。
わからないことがあっていいんじゃないかな。
わからないことがあるからこそ、人間って面白いんだと思う。
自分以外のすべての人が幸せに見える。
そして、僕だけが不幸に見える。
…そんな風に思う時がある。
でも、それは僕の妄想。
僕の辛い気持ちが、そう感じさせているだけ。
よく考えてみなよ。
そんなに僕は不幸か?
開き直るというか、仕方のないことなんだって思えればいいのかな?
現実を受け入れるというか、これが今の僕なんだって思えたらいいのかな?
デカイことはもうできないかもしれないけど、それでいいじゃない。
無職で40代のウツ主夫でもいいじゃない。
だって病気なんだもの、仕方ないじゃない。
すぐに解決できない問題だってあるんだよ。
等身大。
背伸びは不要さ。
堂々と生きたらいい。
堂々と歩いたらいい。
ウツ主夫よ、胸を張れ!
いつものようにコーヒーショップに行くと、あの店員さんはいなかった。
次に訪れた時もいなかった。
今日も彼女はいない…。
翌日僕は、いつもとは違うコーヒーショップに入った。
その日の僕は、頭が重く、体調があまり良くなかったのだが、家でじっとしていても調子は悪いだけだと思い、力を振り絞って出かけたのだった。
何度か見かけたことがある店員さんが、「おはようございます」と話しかけてくれたので、思わず僕も「おはようございます」と挨拶をした。
声をかけてもらったことが嬉しくて、自分でも驚くほど、ニッコリ笑顔で挨拶したと思う。
その後もオーダーの際に、2~3度、目と目を合わせて笑顔の会話をした。
僕はエスプレッソを注文した。
それまでは、店員さんに挨拶などせずに注文していたから、コーヒーを受け取って終わり…だったのだが、今回はその店員さんから、クーポン券付きのフリーペーパーを頂いた。
なんだかとても幸せな気分になった。
きっと挨拶したせいで、お互いの心の距離が縮まったのだろう。
挨拶をしてくれた彼女に感謝だ。
閉じていた僕の心の扉を開けてくれて、ありがとう!
おかげで素敵な一日になりました。
朝のコーヒーショップには、パソコンを持ったビジネスマンや主婦と思われる人が多い。
主夫となった僕と、主婦っぽい人の行動パターンは似ているようで、同じ人を別のコーヒーショップで見かけることもある。
主夫生活をするようになってから、主婦の大変さを知った。
それは家事だけの話ではない。
夫の稼ぎで生活をやりくりすることはもちろん大変だし、自分が稼いでいないことで、多少なりとも感じているであろう引け目。
なるべく安いコーヒーを注文したり、クーポン券を使ったりしているところは、とても共感できる。
世の中には、自分ではどうしようもできない悩みを、たった一人で抱えている人がいっぱいいるはずだ。
そんな人たちとみんなでチームを作ったら、結構盛り上がりそうだ!と思った。
きっと、どんな大企業にも負けないくらいの組織になることだろう。
ウツになってわかったことは多い。
世の中にいるほとんどすべての人たちが、何かしらの問題を抱えているということだ。
僕が元気だった頃にも、その人たちは苦しんでいたかもしれないのだ。
そんなことを考えることができただけでも、僕がウツを患った意味はある。
大いにあるのだ!
こっちの本には、「一喜一憂するな!常に平常心でいろ!」と書いてある。
あっちの本には、「喜怒哀楽は素直に吐き出そう!」と書いてある。
「どっちが正解なんだ?」と戸惑ったこともあったが、そのくらい色々な考え方があるということなのだ。
だから、一つの考え方をすべての物事に当て込んでしまうことは、自分自身を狭めてしまうことになりかねない。
その時の自分を、その時の素直な自分の気持ちを、大切にすればいい。
自分が考えることは誰にも邪魔できないし、考えに正解も不正解もないのだ。
色んな人たちの言葉をヒントにして生きていけばいい。
ひとまず、こっちの本も、あっちの本も、本棚に並べておこう。
時々、無性に虚しくなる時がある。
とてつもない苦しみに襲われる時がある。
わけもなく悲しい時がある。
自分の存在価値について、深刻に考え込んでしまう時がある。
あまりにも辛すぎて、すべてが黒に映る夜もある。
いっそ何もかも壊れてしまえばいいと、自暴自棄になってしまう夜もある。
巨大で重たい不安に耐えられず、じっとしていられないことなんてしょっちゅうだ。
そんな時は、約40年もの間に感じた夥しい苦悩の数々が、頭の中に物凄いスピードでフラッシュバックされる。
この波に飲み込まれてはいけない!
なぜならそれは「今の僕」ではないからだ。
すべて、今ではないところにいる自分のことを考えているのだ。
じゃあ「今」って何だ?
僕は、君は、今何をしてる?
食器を洗ってる?散歩してる?シャワーを浴びてる?
今やっていることをやればいいんだよ。
ひとまず、それだけ考えようよ。
後のことは後で考えればいいのさ。
とにかく今は、皿を洗うんだ!歩くんだ!熱いお湯を頭から浴びるんだ!
忘れちゃいけないことは、「今僕がここにいる」ということ。
過去の辛いことは消えないけれど、それを今の自分がどう捉えるか。
それが大事なんだ。
現在の時刻は9:45。
この時間のコーヒーショップには、人が少ない。
朝の忙しい時間帯は過ぎたようだ。
果たして店内には、僕みたいに無職で、病気で、暇な人はいるだろうか?
おいおい!
無職であることが、病気であることが、暇なことが、何だって言うんだい?
今は辛いけど、明日には、明後日には、半年後には、全く状況が変わっているかもしれないじゃないか!
僕は犯罪者でも逃亡者でもない。
ただ、病気で仕事をしていないだけだ。
それの何が悪い!
僕の心よ、もう僕を悪者呼ばわりしないでおくれ。
お願いだから、これ以上、僕を責めないでおくれ。
僕は走った。
とにかく走った。
音楽に揺れながら、何も考えずに、ひたすら走り続けた。
モヤモヤを、汗と一緒に、体の外へ出してしまいたかったから。
坂道を上ったり下ったり。
それはまるで僕の病気の波のようであり、僕の人生そのもののようでもあった。
人生の坂道を、僕は必死に走っていた。
限界が来ても走ることを止めなかった。
リタイヤすることなど絶対にしてはいけないと思っていた。
途中棄権?
当時は、そんな選択肢など持ち得ていなかった。
もしもあの時、たまには歩きながら、時々休憩しながら走っていたら、僕はこんな状況に陥っていなかったかもしれない。
でも、今そんなことを考えても遅いし、無意味だ。
それは過去のこと。
過ぎてしまった現実。
ウツは、心のアラートだったのだ。
病気が、セルフコントロールできなくなってしまった僕に、「このままでは死んでしまうぞ!」「少し休みなさい!」というサインを送ってくれていたんだ。
モヤモヤの正体
↓
空を見てみよう。
昼も夜も、たまには空を見ながら歩いてみよう。
行き交う人や建物をボーっと眺めてみるのもいいかもしれない。
見慣れたはずの景色も、改めて見てみると、新しい発見があってとても新鮮だったりする。
まるで、どこかを旅しているかのような気分になれる。
水の中に潜ってみよう。
何も考えずにプールで泳いでみよう。
聞こえるのは、水の音と自分の息づかいだけ。
何も考えない空間。
水は心を洗ってくれる。
今日はいつもより、物事を大きい範囲で考えてみることにしよう。
地球という大空間に生きている自分。
神秘的な世界を歩いている自分。
どうだい?
悩み事の1つや2つは消えてなくなりはしないかい?
たとえ消えなくても、少しは気持ちが楽になりはしないかい?
大好きだったバンドが解散した。
その後、中心メンバーは、新たなメンバーと別のバンドを組んで活動することになったのだが、新しいバンドの音は、前のバンドの音には到底敵わないと思った。
少なくともその時点では…。
ある日、久しぶりにテレビ出演している彼らを見たのだが、昔はキレキレだった表情も、どこか穏和な表情に変わっていて、なんだか少し残念だった。
ところがたまたま今日、その新しいバンドの新譜を何気なく試聴してみたら、
稲妻が走った!僕は覚醒した!!
彼らは廃れてなんかいなかった。
今も昔も、彼らはずっと「今」を奏でていたのだ。
常に「今」の音を鳴らし続けていたのだ。
「彼らにできるのなら、オレにだって今を輝かせることができるはずだ!」
僕はそう思った。
昔のことにこだわっていても何も始まらない。
新しいものが常に最高だとは言わないが、昔のことを思い出して懐かしんでいる間にも、
「今」はすぐにやってきて、すぐに過ぎ去ってしまう。
僕は過去にとらわれ過ぎているのだ。
今の僕の頭の中には、「過去の何万人、何億人もの自分」が潜んでいる。
過去の悲しみも苦しみも、過去のあらゆるすべてが、今も自分の中に潜んでいる。
もちろん、失われた記憶もあるけれど…。
つまり、共存しているのだ。そして、それが今の自分を作っている。
だから、過去の自分と今の自分を切り離すことなどできない。
頭の中に今なお残っている「過去の何万、何億もの自分」は、今の僕にとって、いったいどれくらい重要なのだろうか?
記憶という過去の自分たちは、いつしか小さくなり、やがて消えていく。
一方で、死ぬまで忘れることができないものもあるだろう。
僕は、数え切れないほどの「自分」を所有していて、そいつらは今でも時々僕を苦しめたり、感傷的にさせたりする。
ウツウツとしている時は、たいていそいつらが僕の頭を占領している時だ。
僕が過去に拘束されている時だ。
過去の自分から解放されるべきなのだ!
あらゆる過去と言っているわけではない。
自分を阻害する過去のことだ。
前へ進めぬ記憶なら、前へ進むことを邪魔する記憶なら、今すぐ脱ぎ捨てるのだ。
さあ、立ち上がれ!
僕はもう過去の僕ではない。
脱ぎ捨てられない過去の記憶は、「今」に集中することで、上書き保存されていく。
そしたら、捨てきれない記憶も少しずつ姿を変えていくはずだ。
ただ少々厄介なのは、自分を阻害する過去ほど、そう簡単には削除できないということだ。
それでも、それでも、「今」を上書きしていくしかない!
遠い未来に立っている自分を想像してみた。
未来の自分になったつもりで、今の自分を眺めてみた。
僕はもがいていた。
もう一度、遠い未来に立っている自分を想像してみた。
今度は、未来から、元気に過ごしている今の自分を見つめてみた。
僕は、笑顔で誰かとコーヒーを飲みながらお喋りをしていた。
幸せそうにはしゃいでいた。
遠い日も、いずれはやってくる。
今日を生きていれば、必ずやってくる。
遠い日の自分のことなど知る由もないけれど、それを想像することは、怖い半面、ちょっぴり楽しい作業でもある。
僕は、未来の自分のことを考えている。
つまり、「生きていたい」ということなのだ。
本当に生きていたくないと思っているのなら、未来など想像できるわけがないのだから。
昨日の僕にサヨナラをしよう。
一秒前の自分にアリガトウと言おう。
朝起きたら、今日の僕にハジメマシテと言おう。
オハヨウ、ヨロシクって言おう。
明日のことはわからないけど、明日がやってきたら、また、ハジメマシテ!オハヨウ!ヨロシク!って言おう。
言葉が溜まっていく。
一人で過ごしていると、心の中にどんどん言葉が溜まっていく。
夜遅くに帰宅した妻に、その溜まっていた言葉を、物凄い勢いで吐き出してしまうことがある。
疲れている妻にとっては、とても迷惑な話だろう。
今はなるべく、溜まった言葉を綴るようにしている。
溢れ出る言葉の一つ一つを、ごくごく自然に湧いてくる言葉の一つ一つを、ノートや手帳に綴ることにしている。
そうすると、しだいにモヤモヤが晴れていくことに気がつくのだ。
これぞ、モヤモヤデトックス!?
寂しい時はどうしたらいいのかな?
一人で映画でも観ればいいのかな?
本でも読んでみればいいのかな?
誰かに連絡してみればいいのかな?
時々、どうしても解決方法が見つからない時がある。
寂しい時はどうしたらいいのかな?
寂しい時はどうしたらいいのかな?
寂しい時はどうしたらいいの?
寂しい時はそのままでいいよ。
寂しいって、悪いことじゃないんだよ。
それでも寂しかったらどうしたらいいの?
その時は、、、もう一人の自分と話をしてみよう。
それでもやっぱり寂しかったらどうしたらいいの?
そしたら、もう一人の自分の中にいるもう一人の自分を呼んでこよう。
ほら、これで3人になった!
これ以上は要らないよ。
3人くらいがちょうどいいんだ。
寂しさを3人で共有すれば、寂しさだって1/3になるよね!
虚しい。
景色もそこにあるだけで、僕の瞳に映し出されるだけで、心の中までは侵入してこない。
いや、侵入できないほどの虚しさを、僕は今抱えてしまっているのだ。
けど、晴らそうとしなくていい。
無理に感じようとしなくていい。
景色の意味なんか考えなくていい。
虚無…。
本当に空っぽなのだろうか?
お腹が空いたらまた食べるよね?
疲れたらゆっくり休むよね?
僕は今、空腹なだけさ…。
よく休めばきっとまた晴れるだろう。
また新しい一年が始まったが、相変わらず調子は悪く、気分は最低である。
不安感と倦怠感。眠気も酷く、人にも会えずにいる。
「何のために生きているのか?」
「生きていても何の意味もない」
新年早々、負の言葉が頭の中を駆け巡る。
今年で結婚10年目になるというのに…。
妻には本当に申し訳ない。
オレが悪い。すべて悪い。
病気は本当に良くなるんだろうか?
本当に前みたいに元気になるんだろうか?
短期のアルバイトや季節労働の仕事なんかをやりながら、資格の勉強でもするか?
果たしてそんなことができる?それは本当にやりたいこと?
たった一日で仕事に行けなくなるくせに、なんとなく思っただけだろ?
妻が働いてくれているから、それに甘えてしまっているんだろうか?
誰にも頼らず、自分一人でやっていく方がいいのかな?
そうすれば、誰にも迷惑をかけずに済むのかな?
モヤモヤとイライラが止まらない。
そして、最後はウダウダして布団に潜る…。
卑屈だらけの頭の中。
だけど、こんな状況の中にも救いなことが一つだけある。
それは、「このまま」を変えようと思っていることだ。
モヤモヤとウダウダの関係
↓
肩と首の凝りが酷い。
目も疲れてショボショボする。
これも病気の症状だろうか?
昨夜は寝付きも良くなかったし、夜中に何度も目が覚めた。
知らず知らずのうちに、ストレスが溜まっているのかもしれない。
どこまでがウツの症状で、どこまでが普通の人にも日常的に起こることなのか?
その境界線がわからない。
でも、そんな境界線を問題視する必要なんてあるのか?
病人だろうと、病人でなかろうと、みんな苦しみながらも毎日を生きているんじゃないのか?
病気は、僕のほんの一部に過ぎない。
病気が僕のすべてじゃない。
目には見えない無数の神経が、体のあちこちで働いていることを僕は想像する。
いったいどれほどの神経が存在しているのかは知らないが、使わなくてもいい神経まで使っているような気がする。
もしかしたら、「体を休ませる」という神経は全然働いていなくて、それ以外のすべての神経を酷使させているのかもしれない。
だからいつもガチガチなんだろうか。
肩も首も、心までもがガッチガチ。
きっと自分が思っている以上に、気を張った生活をしているんだろう。
ふーっと、深呼吸。
太陽の光を浴びたり、空を見上げたり。
目を瞑ってしばらくボーっとしてみたり…。
たまにはそんなことに意識を向けてみることも大切だ。
少しダラダラしよう。ぼけーっとしよう。
「ポチッと」できずに落ち込む。
「ウツのバロメーター」が行ったり来たり、波を打つ。
気分がいい時はやる気も沸き起こり、できそうな仕事に応募しようと、求人サイトに必要事項を入力するところまで辿り着くのだけど、最後に、いざ申し込みをするという段階になると、猛烈な不安に襲われる。
そして結局、応募すらできなくて落ち込んでしまう。
何かしなきゃ!とにかく働かなくちゃ!
…僕は焦っていたのだ。
僕のことを誰も知らない場所に行けば、少しは楽になれるかもしれないとも考えていた。
でも、住み込みの仕事なんてしたら、今よりもっと具合が悪くなってしまいそう。
最後の「ポチッと」ができないってことは、「今はまだやめておきなさい」ってことなんだろうな。
バロメーターはいつでも行ったり来たり。
人生も、前に進んでは止まるの繰り返し。
でも、それでいいんじゃないかな。
それは、ごくごく当たり前のことさ。
今はとにかく辛抱。
いずれその時はやってくる。
その時まで体調を整えておくのが、今の僕の大事なお仕事。
歯の詰め物が取れて、久しぶりに歯医者に行った。
よくしゃべる女の先生で、元気がない今の自分にはちょっと辛い状況だ。
患者さんの緊張を紛らわすことは、一種の治療と言えるかもしれないけど、今の僕の気分にはちょっとね…。
先生は患者さんに、自分のことや自分の家族のこと、珍しく雪が降ったことなんかをたくさん話しかけている。
ただ、患者さんはみんな口を開けているから、うまく応答できない。
それでも先生はお構いなしにしゃべり続ける。
僕は歯医者に来ると、いつも体のあちこちに力が入ってしまう。
時々顎がガクガクしてしまって、恥ずかしい思いをする。
今回も顎のガクガクが止まらなくなり、僕は焦った。
汗がダラダラ流れ落ちてきた。
それに対して、先生はすぐさまフォローを入れてくれた。
「あんまり長い時間、口を開けていられないのね…」
「他にもそういう人はいますよ。大丈夫、気にしないで!」
こういう時には、よくしゃべる先生の方が気が楽かもしれない。
はじめは、元気な先生にちょっと鬱陶しさを感じていた僕だけど、
最後は先生の良いところが見えるようになっていた。
それにしても声が小さい僕。
自分でも驚くほど声が小さい。
でもまあ、今は体調が悪いから仕方ないか…。
元気になったら、大きな声で先生と世間話がしてみたい。
僕は不幸のどん底にいると思っている。
自分の描いた人生とはかけ離れた未来に生きていると感じている。
時に人を憎んだり、妬んだり、羨んだり…。
その思いがまた自分を苦しめる。
これまでの全部が不幸だったんだ!
そう思った瞬間、両親にドライブに連れて行ってもらったこと、野球の試合でチームメイトと抱き合って喜んだこと、友人と一晩中語り明かしたこと…。
そんな幸せな時間がたくさん思い出された。
悪いことなんて、一つも思い出せなくなった…。
お父さん、お母さん、お兄さん、嫁さん、本当にごめんなさい。
自分があまりにも情けなくて、夢の中でも、僕を助けようと近づいてくる家族に声をかけることができなかった。
ほんの少しだけ呼びかける仕草はしたけれど…。
心の中では思っている。
心の中では求めている。
現実ではできないことも、心の中では思っている。
今はそれだけで十分。
もう少し元気になったら、きっと直接、自分の言葉で思いを伝えることができるはず。
それまでは、ひとまず時間に身を任せておこう。
流れるままに生きていよう。
できることをできる範囲で…。
今はそう考えることにしよう。
家族って苦しい。
家族って特別苦しい。
切りたくても切れない糸でつながっているから…。
でも家族って美しい。
家族って特別美しい。
切りたくても切れない糸でつながっているから…。
お父さん、お母さん、お兄さん、嫁さん、
みんなありがとう!
僕は一人なんかじゃないんだね。
手紙が届いた。
いつも僕のことを気にかけてくれている人からの手紙だった。
返事を書くことができないまま、また手紙が届いた。
僕はしばらく手紙を書けそうにないよ。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
だけど本当に今は書けないの。
しばらくは書けそうにないんだよ。
だから、もう少しだけ待っていてくれるかな?
お願い、もう少しだけ…。
君のためにできることって何だろう?
それは僕が元気になることかな?
そしたら君は幸せかな?
僕は、君が幸せかどうか考えている。
僕と出会ったがために、不幸な人生を歩んでしまっているんじゃないか?って考えている。
だけど、君が幸せかどうかは、僕が決めることじゃないんだよね。
死にたくなるほど辛くて、苦しくて、自分を責めた夜、君は僕のそばに来て、そっと手を肩にのせてくれたよね。
涙が止まらなかった。
だって、君は何も言わずに、ただ僕のそばにいてくれたんだもの。
今僕がこうして悶々としている間にも、君は一生懸命働いているんだよね。
君は幸せなのかい?
僕と一緒で本当に幸せなのかい?
僕が決めることじゃないってことはわかっているんだけど、やっぱり気になるよ。
だって、君のことが好きだから。
たとえ、世の中の全員に嫌われたとしても、君にだけは嫌われたくないんだよ。
夫婦には色んな形がある。
働き方にも色んな形がある。
世の中には一般論が存在するが、なにもその通りに生きていないとおかしいということはない。
でも我々は、しばしば「一般」にとらわれる。
「人と比べて自分は…」と考えてしまう。
100人いたら100通りの人生がある。
自分の生き方は、自分にしか作ることができないのだ。
自分たちの価値観で生きる。
周りの人とは違う2人だけのスタイルで。
「自分が、自分たちが、どう生きるか」
そう考える時に、他人の価値観はあまり重要ではない。
だって、幸せ軸は自分たちで作っていくものだから。
…湯船にお湯を溜めながら、僕はそんなことを思っていた。
欲しいと思うと手に入らないものだ。
僕たち夫婦に子供はいない。
若い頃は、特段欲しいとは思っていなかった。
子供が自分のような人間になったら可哀そうだと思っていたから。
子供には子供自身の人生が待っているというのに…。
子供なんていつでも簡単にできると思っていた。
でも、子供がいてもいいかなと思った時には、叶わぬ願いとなっていた。
世の中には、人生には、自分たちの力ではどうすることもできないことがある。
ただし、人生は一つのことがすべてではない。
子供ができないということは、人生の一部分でしかないのだ。
もちろん、病気であるということも、僕の人生の一部分でしかない。
悲しいこともあるけれど、楽しいこともあるんじゃない?
そういうこと、最近忘れてやしないかい?
たまには夫婦喧嘩も良いものだ。
不愉快な気持ちは厄介だけど、一人家を飛び出して、散歩をしたり、図書館に行ったり、
レンタルビデオ店に入って時間を潰したり、一人でランチを食べる時間…。
そんな風に、夫婦別々に過ごす時間も時には必要だ。
やがて一人の時間にも飽きてくる。
それが家に帰るタイミング。
しばし外を彷徨った後に見る妻の顔は、もう憎らしくなどない。
初めて出会った時の彼女に戻っているのだ。
僕はきっともうダメだ…。
ちょっと待て!
ストーーーーップ!
一旦思考停止!
自分を責めても自分が苦しいだけだぞ!!
じゃあいったい僕はどうすればいい?
ひとまず、今の君にできることをやってみたらどうかな?
今の僕にできること?
それは何だろう?
…少し考えてみよう。
うーん、とりあえず、自分を責めることをやめて、洗濯物でもたたむとするかな。
時々、自分が何のために生きているのかわからなくなって、途方に暮れる。
そんな時の心の天気は、決まってどんより曇り空。
でもこの気持ちは、やがてパワーに変わるのだと知った。
今は単に充電中なだけ。
充電が完了したら、きっとまた元気になれる。
今はただそれを待っていればいい。
晴れの日をただ待っていればいい。
空振りの連続でも、次の球をスタンドに放り込むことだってある。
楽しいことも長くは続かないけれど、悪いことだってそう長くは続かない。
いつだったか、行きつけのクリーニング屋のおばあちゃんがそう話してた。
僕は今まで、自分に「心の弁護士」をつけたことがない。
自分を責め続けるばかりで、「そんなことないよ!」ってフォローしてくれる人が、
心の中に誰一人として存在していなかった。
僕はいちいち自分を責める。
時に激しく責める。
逐一自分の言動を振り返っては採点し、その点数はいつも散々たるものだ。
あの時発した言葉は、あの時取った自分の行動は、本当に正しいものだっただろうか?
きっと相手に嫌な思いをさせたことだろう。
きっと相手に変な奴だと思われたことだろう。
そんな風に、僕は自分を責めるのだった。
そしてこんな時、心の中で、「異議あり!」と手をあげてくれる弁護人はいなかった。
そうだ!今日から、もう一人の自分を僕の心の弁護人にしよう。
自分を責めてしまった時はいつでも、「異議あり!」と、もう一人の自分に言ってもらおう!
「被告人は何も悪くありません!基本的に優しくて真面目な人間です。少しだけ、自分に厳しいところがあるだけなのです!しかも、それは決して悪いことではなく、むしろ長所と言えるのではないでしょうか。そもそも、被告人と呼ぶのも失礼です!!」
なんかちょっと気持ちが楽になったぞ!
頼むぞ、心の弁護士さん!!
負けてたまるか!
って、いったい何に?何の勝負に?
何かに負けていると思っているのは、負けていると決めつけているのは、他ならぬ自分。
自分の人生に、自分で「負け」と言ってしまうほど愚かなことはない。
人にいくら負け組と思われようが、自分で負け組と思わない限り、負け組ではないのだ。
人にいくらダメな奴と言われても、自分でダメな奴と思わない限り、ダメな奴ではないのだ。
反対に、自分で負け組だとかダメな人間だと認めてしまったら、あっという間に僕は負け組にもなるし、ダメな人間にもなってしまうのだ。
そしてそのスピードはとにかく早い。
では、ここで一句。
「ダメ認定 自分でしちゃえば ダメ人間 しなけりゃ 全然 ダメじゃない」
言葉は救いだ。
誰かと話している時の言葉でなくてもいい。
心の中の自分と対話している時の言葉でもいい。
言葉はいつも僕を救ってくれる。
本を読んでいる時、日記を書いている時、いつも思う。
言葉に救われると…。
時々、自然と言葉が降ってくることがある。
長い間通院しているクリニックの主治医から聞いた言葉や、本で読んだ言葉が、突然目の前に降りてくるのだ。
知らず知らずのうちに、刷り込まれていたんだな。
しっかりと頭の中に残っていたんだな。
それは、僕が自分を変えたいと思っている証拠。
見聞きした言葉と僕自身が起こした化学反応。
これに勝る薬はない。
最近、僕が以前勤めていた会社を定年退職した人とよく遭遇する。
と言っても、声をかけてまで話すことはないし、そういう間柄でもない。
その人は、図書館に行くと見かけることが多く、ここ最近は、朝のコーヒーショップでもしばしば目撃する。
その人を見ていると、まるで僕も定年退職後の生活を送っているような気分になる。
その人が、どんな気持ちで毎日過ごしているのかはわからない。
寂しいかもしれないし、悠々自適な生活に満足しているかもしれない。
だけど、1つや2つ、いやそれ以上の不安だってあるはずだ。
もちろん、それも僕の妄想にすぎないわけだけど、なんとなくその人の気持ちが透けて見えるような気がした。
僕はまだ40代。
世の中で言うところの定年にはまだ早すぎる。
ということはつまり、まだまだやれることはあるはずなのだ。
実際やりたいことだって少しはある。
ちょっとずつでもいいから、やりたいことを始めてみようと思った。
だって、僕はまだ定年を迎えてはいないのだから。
それに、そもそも人生に定年なんてないのだ!
死ぬまでは、誰もが現役生。
自分にしかできないことが、きっと山ほど残っている…。
ある日、押し入れの中を整理していたら、古いビデオテープを見つけた。
確か10年ほど前に撮影したテープだ。
10年前、僕は東京から地元に戻ってきた。
その時、「良い思い出になると思うから!」と、仲の良い先輩がビデオカメラを貸してくれて、それで東京の最後を撮っておいたのだ。
それを先日、カメラ屋さんでDVD化してもらった。
そして10年ぶりに、10年前の僕を見た。
僕はとても元気だった。
若かったし、とても健康的に映っていた。
泣きたい気持ちと、どこか他人事のような気持ちが半分半分。
きっと、そこに映っているのが今の僕ではないから、他人事のように思えたんだろう。
僕は無性に今の自分の顔が見たくなり、洗面所へ向かった。
10年前より老けた顔。
10年前より増えた白髪。
10年前よりたるんだお腹周り。
泣きたい気持ちと、ホッとする気持ちが半分半分。
「10年前の自分より、今の自分が好きだ」
そう思えたことが、今の僕にとって何よりも特別なことだった。
こんな雨の日に前向きでいられるのは、僕にとって信じられないような出来事だった。
一人でいる時間。
寂しいようで、寂しくない気もする。
僕は路頭に迷っているようで、次へ向けて進んでいるのかもしれない。
少しずつ何かが変わってきているのだ。
物事に変化がないことなどあり得ない。
すべては常に動いている。
地球も、この世の中も、もちろん人間の心だって、一瞬たりとも立ち止まることはないのだ。
時計の針とともに、すべては動いているのだ。
僕は秒針。
僕は秒針。
いつも動いている。
止まらず動いている。
これからも動いていく。
「このままではどうなってしまうのか?」
「このままでないことは確かです。」
大切なことがもう一つある。
それは、
「そのままでいいこともある」ということ。
「全部を変える必要なんてない」ということ。
「今の僕でも十分」
「今の君でも十分」
それを忘れないで…。
(完)